by artelatino
カテゴリ
以前の記事
2013年 07月 2013年 03月 2012年 12月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 04月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 ブログパーツ
バナー
最新のトラックバック
タグ
お気に入りブログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
あるぜんちんの日系紙 らぷらた報知のコラム”この人に聞く”第一回目 フアン・パブロ・マルトゥラノさん
アルゼンチンからイタリア、そして日本へと渡り、その言語を、文化を、そして風景を石に刻んだ一人のアルゼンチン彫刻家がいる。6年間の日本での留学生活を終え、今母国へ帰ってきた彼に話を聞くことができた。 彫刻家フアン・パブロ・マルトゥラノさんは1975年にブエノスアイレスで生まれ、IUNA国立美術大学彫刻科を卒業後、ミケランジェロも上質の石を求めて足しげく通ったイタリアの小さな町カッラーラに渡り、そこのアカデミア美術大学で石彫技術を学んだ。カッラーラ時代の国際的な環境で日本人の友人も出来、縁もゆかりもなかった日本について色々な話を聞いた。当時イサム・ノグチの作品に魅せられていたという経緯もあり、日本で盛んな御影石の彫刻、そして何よりも日本文化への関心が、彼を引き寄せる事となった。 ■ポップコーンを彫る 文科省の奨学金を受け、2006年に金沢造形大学の研修留学生として渡日。日常生活の中に生き続ける伝統に、生身の感覚で触れられる土地、それが金沢だった。日本についてまず行ったこと、それは日本語の勉強だった。大学から指定された日本語能力試験2級に受からなければならない。小さな学生寮の一室に籠もり、マテと「ポップコーン」という名のスナック菓子をお供に毎日日本語の勉強に明け暮れた。キャラメルで覆わたこのポン菓子は、自分の知っていたマイス・インフラードとは違っていた。日本語を勉強しながら、その英語が誤用されて命名された和製ポップコーンを食べる。いつしかこの「ポップコーン」が日々悶々と励む語学習得の象徴になった。そしてこの「ポップコーン」という手軽でおいしいお菓子は美大に入学して卒業するまでの創作活動のテーマにもなるほど、生活と文化、そして石彫を記憶し、一体化させる貴重な粒子となった。 金沢美術工芸大学の卒業作品は「手触りの会話」と題された高さ260cmにも及ぶもの。日本人の婉曲的な会話方法を形にした作品で、くねくねと昇る塔の頂点にはポツンとポップコーンが置かれている。金沢21世紀美術館に展示された作品だ。 ■登山家か彫刻家か。捧げ物か証拠か。 美術家というキャリアを選ぶ前から、すでに登山家だったフアン・パブロ。もちろん趣味で日本の山々を登った。と同時に、日本では山をモチーフにした美術作品を多く眼にした。2010年に金沢美術工芸大学修士課程を終え、多摩美術大学の博士課程へと進み、新たな研究課題を選ぶときにどうしても無視できない問題、それは「山」というテーマだった。登山家としての私と彫刻家としての私の同一性を確認するため、山登りを創作にどう持ち込めるかを考えた。 富士山を初めとする日本の山々はご神体である。頂上へつくと人々はささやかな奉納物を置いていく。そしてまた登拝の記念に小石を持ち帰る。この風景はフアン・パブロにとって珍しいものではなかった。なぜならアルゼンチンのアンデスの山々でも登山達成への感謝の贈り物を置く習慣があったからだ。 いつしか彼は石で作った自分の彫刻を持って山に登り、その彫刻品を山の頂上に奉納するようになった。そして頂上から小石を一つ持ち帰り、それを模型(マケット)として作品として彫刻する。フアン・パブロはこう語る。「作品である石は山へと帰り、山は新たに作品になる。それは石である僕(作品)が山となり、山の小石が僕(作品)になるということなんだ。」と。登山達成という精神的で身体的な挑戦は、奉納物としての石をもとの自然に帰すという二つ目の目的によってさらなる責任感を課され、その点において対他的だが、その石が同時に自分自身であるゆえに純粋に対自的でもある。 フアン・パブロ・マルトゥラノという一人の作家と山とを巡る無限の循環系を作り出す育みは、彫刻家が彫刻作品を作るというポイエシスを超えて、登山家であると同時に彫刻家である彼の自己実現に関わるテーマであり、終わりなき活動となっているのである。 現在は、ブエノスアイレスのパレルモの一角で、黒い石の粉まみれになりながら約300kgほどの黒御影石に山脈を掘っている。今後はしばらくアルゼンチンで創作を続ける予定だそうだ。彼と山との循環系はアンデスの山々にも連携する。この孤高の彫刻家を、これからも私は山の底辺から応援し続けたい。(郷) (*ことばポイエシス:もともとギリシャ語で「作ること」を意味する。) #
by artelatino
| 2013-07-31 23:03
| アート
1900~1930年代ぐらいまでで、一番有名なアルゼンチンの作家ってキンケラ・マルティン /Quinquera Martinですよね。でも見てみると結構素晴らしい作家が色々いる。
アルゼンチンでは1870年代になってやっと芸術作品の創作を学ぶ芸術院が出来、しかも技法としてはもっぱらの古典的なナチュラリズムでした。留学へいく作家の行き先もイタリアとスペインが大半。 そのころフランスと云えば第1回印象派展が1874年に開かれていた。 単純に云ってアルゼンチンの芸術界は当時大分遅れを取っていたようです。 アルゼンチンに印象派を広めたのがMartin Malharro. 国立美術館にあるこの作品は1911年のもの。 これ、モネのムールのシリーズをそのまま借りて描いてみたものですが、モネは1880年代に描いている。 そのあたりから今アルゼンチン絵画をちょっと勉強していますが、印象派からポスト印象派になるあたりから、けっこうアルゼンチンらしい個性が見え出して面白い作家がいるのです。 29歳で死んでしまった作家Ramon Silva。 印象派の光と融合させている鮮やかな色使い、ナイーブなタッチが、後に栄える表現主義の到来を感じさせます。 Guillermo Butlerはコルドバ生まれ。私はコルドバに行った事が無いけれど、そこに描かれるアルプスのような山々をバックに、白くかすんだ光が自然を照らしている、典型的なコルドバの風景画が好きです。 筆で大目の絵の具をペタペタと塗っていて厚みのある絵。画面を色の僅かな違いで分割するような技法。遠近法を平面で現す幼稚な感じなど、日本人好みなのかな。 今日の最後はGramajo Gutierrez。 アルゼンチンのTucuman生まれ。北部の人々の様子を、その土地独特の色使いをそのまま画面に映しています。 西洋から受け継いだ自然の光を取り入れつつ、アルゼンチン独特の風景を照らし出し、描いた作家です。 #
by artelatino
| 2013-03-02 05:58
| アート
ちょっと前に、Youtubeで60年代ミュージックにはまり、ひたすら色々聞いていた。かなり好きです。60年代。
授業でビートルズのテキストを読んだ際に、アルゼンチンではどんなのがあるのかという話になり、生徒に教えてもらったのがこちら、 パリート・オルテガ(Palito Ortega)。”Felicidad ja ja ja ja...”(幸せ ハッハッハハハ!)って歌っています。 http://www.youtube.com/watch?v=Ivu9LBIHoh8 現在70歳。現役。ボトックスぶりが蝋人形のようです。 日本の60年代お気に入りはコチラ。ビートがかっこいい! 1.サトー・ノト ドッキングダンス http://www.youtube.com/watch?v=9RkdcgqF-00 2.ザ・ゴールデン・カップスのアイム・ソー・グラッド http://www.youtube.com/watch?v=IrXJ3vpvKww&feature=related 尾藤イサオが司会をしている。女の子たちの踊りっぷりを見習いたいもの。 #
by artelatino
| 2012-12-06 10:05
| 音楽
|
ファン申請 |
||